きもの文化ノート 本文7-9
きもの文化について自分の参考資料として私見を書いています。本文は順不同に、内容を膨らませながら書いています。参照される方はご了承の上、ご覧ください。なお、無断でのコピーや転載はご遠慮ください。追記・修正箇所は太字・下線にしています。
第7章 歴史
第9節 明治時代
1 政治経済
明治維新以降、日本は急速に近代化を進めていきます。
2 文化・美術
初期は欧化主義により洋風が栄えますが、国粋主義の台頭から伝統芸術の復興の動きがおこりました。
3 着物
家紋 一般庶民にも広がりました。
小物 帯締めに丸ぐけと呼ぶ紐を使っていました。経巻の緒や袈裟の紐、武家の装束などに利用された組紐が、明治時代以降、帯締めとして転用されています。平組や丸組など、さまざまな手法の組紐が帯締めとして利用されています。
技法 西陣で織られている錦織や唐織などに使用されるジャカード機が、フランスから伝わりました。
化学染料の使用が日本で広まりました。型友禅が開発され、当初「加茂川染」の名で呼ばれました。
大島紬の絣作りのため、締機(しめばた)が開発され、経糸が木綿、緯糸が絹の絣筵(かすりむしろ)を作って染めるようになりました。
ゆかたの染色技法として大阪で注染が開発されました。
着装 おはしょりをするようになりました。
明治から大正時代にかけては、きものが地味であったので、絞りや刺繡など華やかな半衿が好まれました。
明治維新の後に裃が廃止されてから、黒羽二重の染め抜き五つ紋付に羽織・袴が男性の正装として認められました。
丸帯の代わりに袋帯が作られました。
鳶(とんび)という男性の和装コートの一種が流行しました。袖なしのひざ丈ぐらいのコートにケープがついたもので、洋服のインパスを真似てつくられました。
女学生の間で襠高袴(まちだかばかま)が流行しました。華族女学校でえび茶色の襠なし袴が流行ったのをきっかけに、女学校の制服に茶色や紺、紫などの袴が採用されるようになりました。
訪問頂きありがとうございます。この記事がお役に立てれば幸いです。