機の音 はたのね

きものに関連する様々なことを書き残すブログです。

きもの文化ノート 本文7-8

きもの文化について自分の参考資料として私見を書いています。本文は順不同に、内容を膨らませながら書いています。参照される方はご了承の上、ご覧ください。なお、無断でのコピーや転載はご遠慮ください。追記・修正箇所は太字・下線にしています。

 
第7章 歴史
 第8節 江戸時代
  1 政治経済

    奢侈(しゃし)禁止令 贅沢を禁止する令で、豪華な京鹿の子絞などは取り締まりの対象となりました。

    上納 本場大島紬薩摩藩への上納布とされました。当時は紬糸(つむぎいと)で織られていました。

  2 文化・美術

    ものを包むことを目的とした方形の布を「風呂敷」と呼ぶようになりました。

江戸中期、商業の発達に伴って木綿や麻の大型の風呂敷を使うことが活発になりました。

    俵屋宗達尾形光琳・乾山兄弟から始まった美術潮流を琳派といいます。尾形光琳に小袖の柄絵を描いてもらった富裕層の女性もいました。きものの柄だけでなく陶芸や絵画などでも、琳派の作品があります。尾形光琳の作風を取り入れ、梅、菊、水などをモチーフにしたものが光琳模様です。

    十三参りが京都・嵐山の法輪寺で始まったと言われています。智恵と健康な心身を授かるように虚空蔵菩薩にお参りします。

    1856年にイギリスで世界初の合成染料が発明されました。色は紫色のモーブです。

    各藩の識別をする為、裃に藩独自の小紋柄を定めて使用しており、これを留柄あるいは定め小紋といいます。将軍家のお召し十、紀州徳川家の極鮫、甲斐武田家の武田菱、加賀前田家の菊菱などが知られています。

  3 着物
    家紋 武士が衣服につけていました。

    小袖 武家女性は重ねて着て、掛下帯をし、その上に打掛を羽織りました。小袖の上にもう一枚小袖を「打ち掛けた」ことからの名です。きものの裾を引いて着用し、出掛ける際には紐などでたくし上げていました。掻取(かいどり)は公家女性の打掛の呼び名です。

       江戸初期には地を柄で埋め尽くすような慶長模様、やがて寛文模様、元禄模様が流行します。18世紀半ばの小袖には、上半身の模様を取り去って、腰から下だけに模様を配するスタイルが流行しました。町人女性の小袖にはさらに模様の位置を低くして、裾回りだけに模様を施す裾模様の形式が生まれ、18世紀末から19世紀に衿、褄、裾と斜めに模様が入る江戸褄文様も流行しました。現代の留袖の原形になったといわれています。

       小袖のデザインを掲載した見本帳で、江戸中期を最盛期として刊行された小袖雛形本は、1666年発刊の新撰御ひいなかたが現存で最古と言われています。特に、元禄頃から享保頃までは、様々な模様が登場しました。宝暦頃からは具象柄に代わって、縞や小紋などが流行し、雛形本は衰退しました。

    掛け衿 小袖や襦袢の衿の上に絹や木綿の布を掛けるようになりました。

       肌が触れて汚れやすい衿の周りにあらかじめ掛けて取り替えやすいようにしたものです。浮世絵などに見られる黒繻子の衿は、実用だけでなく衿足の美しさを目立たせています。

    帯  表と裏が別布で仕立てられた昼夜帯(ちゅうやおび)という袷の帯が流行しました。

       ヤの字結びという結び方が考案されました。これは歌舞伎役者の瀬川菊之丞が考案したと言われ、路考結びとも呼ばれます。

       公家や上流階級の女性が夏帯として附帯を「丸ぐけ」紐を用いて結んでいました。

    生地 木綿が普及しました。以前は麻を季節を問わず庶民が着ていました。町人に黄八丈の着用が許されると江戸を中心に全国で流行し、富裕な女性が黒衿を掛けて着用し人気を集めました

    小物 江戸時代中期頃に今日の半衿の形式ができました。元禄年間に足袋のこはぜが現れた。こはぜの前は紐で結んだ紐足袋でした。

    技法 元禄時代、染色技法に友禅染が登場しました。友禅染の祖と言われる宮崎友禅斎は扇面絵師をしていました。友禅染めの重要な装飾技法として刺繍が発展してきました。

       平安時代に衰退した夾纈は、板締め絞りとして復活しました。

       ゆかたの染色技法として、両面に防染糊を置く長板中形という技法が開発されました。

       琉球紅型の技法が完成したと言われます。

       柄見本のひとつとして、紬や絣のような織物などを織るときに、模様の参考にするために、布片を反古紙などに張って綴じた縞帳が用いられました。

       鍋島藩の御殿女中の手工芸として佐賀錦が発達しました。

       小紋に使われる伊勢型紙は、紀州藩によって保護された三重県鈴鹿市白子町、寺家町で作られていました。

       有松・鳴海絞 産地は東海道にあり、土産物として三河木綿に絞りを施した道中手拭いを売ったのが始まりです。

    着装 江戸時代後期の文化年間に、江戸の深川芸者が亀戸天神の太鼓橋に似せて結んだことからお太鼓結びが考案されました。この結び方から帯締め帯揚が使われるようになりました。

       羽織は胴服から発展し、外出の際に着るコートのように着用されました。

       花嫁は白装束の打掛に被衣(かつぎ)を被りましたが、中期以降は綿帽子被りました。元禄頃に役者が被り始めた揚げ帽子(角隠し)が花嫁の被りものになり、江戸時代末期には打掛に黒や赤が見られるようになり、胸元には筥迫を挟みました。

       礼装は黒・赤・白の三枚重ねでした。

       広袖で全体に綿が入れてある防寒用の上着の丹前(たんぜん)が、江戸時代に流行した風呂の遊客の風俗から起こりました。関西地方では褞袍(どてら)と呼びます。

       振袖を若い女性が着るようになりました。若い男性の着用例も見られます。

 
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